1997年にPRIDEが立ち上がる数年前、以前からファンであった人達の間では日本人プロレスラー最強説があと少しで証明されると言う寸前であった。だが、しかし...
プロレスラーの苦悩 (と言うかファンの苦悩)
「プロレスの試合はフェイクだ」よってプロレスラーは弱い。
これは大昔からずっと一部で囁かれていた事で最大のタブー。→書いとるやないかい!
ロープアクションや派手な大技は現実的な話、実践的では無い。
しかしそれはあくまでもテレビ用&興行用のショー的要素の一部分であって、実際プロレスラーは強いと言う事はファンの間では周知の事実。 けれども当時の格闘技ブームの中でやがて実践形式の試合が脚光を浴びてくると、尚更プロレスラーに対してのタブーが大っぴらになって行った気がする。
柔術と柔道とプロレスの深い関係
柔術とは元来日本の古武道の一つで、剣術、槍術と言った古来から伝わるいわば人殺しの技。明治以降それらは武道として、柔道や剣道に名前が変わり伝承されて行く事になる。←端折り過ぎ?笑
基本は相手を仕留める技である古武道であったが、中でも柔術は護身術的な要素の方が強く世界的にも類を見ない一風変わったスタイルで、相手を殺傷せずに捕まえる、または自分も傷付かずにねじ伏せる事に特化した独自の武道であった。
この柔術をブラジルに伝えたのは講道館の柔道家であった前田光世だ。彼はブラジルへの日本人移民の促進へも大きく寄与し、生涯2000戦以上を無敗「人類最強の男」と呼ばれるようになった。柔道家から伝わった古武道の柔術が変化し発達した物が、今では総合格闘技術の基本技術の一つと言えるブラジリアン柔術なのだ。
2、柔道家 木村雅彦伝説
前田光世と同じ講道館の柔道家の中に「鬼の木村」と呼ばれた人物がいた。彼は15年間不敗のままに引退、「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」と讃えられ、現代においても史上最強と称される事が多い。
その数々の伝説の一部を見てみよう。
木村の練習量[編集]
- 元々木村は他の選手の倍の6時間から7時間練習していたが、絶対に勝利するために辿り着いた結論が「3倍努力」である。
- 拓大に入ってからの木村の練習量は10時間を超えた。拓大での稽古だけではなく、他大学や警視庁、皇宮警察などを回って乱取り稽古をしていた。乱取り(スパーリング)だけで毎日百本をこなした。その後バーベルを使ったウェイトトレーニング、巻き藁突きを左右千回ずつした。
- 夜になると、師の牛島にならい大木に帯を巻いて一日1000回打ち込みをし、遂にはその大木を一本枯らしてしまった。
- 「寝ている時は練習をしていない」と考え、睡眠時間を3時間にし、しかも睡眠中にもイメージトレーニングをしていた。
- 剛柔流空手と松濤館空手の道場にも通い打撃技を習っていた。
- 戦後は米兵のヘビー級ボクサーとスパーリング中心の練習をこなしてボクシング習得にも挑戦した。
桁外れのパワー
そのトレーニング方法は、単に高重量を扱うだけではなく、例えば100kgのベンチプレスを1時間1セットで何度も繰り返す、仕上げに腕立て伏せを1000回行うなどといった非常に激しいものだった。その鍛え抜いたパワーは、障子の桟の両端を持って潰すことができ、太い鉛の棒を簡単に曲げたという。また、夏の暑い日、師匠の牛島が木村に団扇で扇いでくれと言うと、木村はその場にあった畳を持ち上げ、それを扇のように仰いで牛島を驚かせた。そして両腕を伸ばした状態で肩から手首に掛けて100kgのバーベルを転がすこともできたという。 また、都電に乗った際、悪戯で吊革のプラスチック製の丸い輪を五指で鷲掴みにし、端から順に割っていくことがあった。 その他に乗り遅れた弟子のために走り始めた都電の後ろにある牽引用の取っ手を掴んで引っ張り、電車を停車位置に戻してしまったこともある。弟子たちはそれを見て唖然としたという。
Wikiより
リアルバキだ。笑!!
その木村雅彦は後に、ブラジリアン柔術の技術体系を築き上げたエリオ・グレイシー(ヒクソンやホイラーの父)と、相撲上がりのプロレスラーである力道山と戦う事になるのだが...
続く...
1月3日、あまりにも暇で右折レーンにて箱根駅伝を特等席で観戦。
(全ての選手が通過するまで待たされた)