boulangerieの暇つぶし

元パン屋で都内タクドラの雑記。パン、料理(自炊)、音楽、映画、インテリア、酒、車、旅行...元嫁と質素な楽しい暮らし。

前田日明の都市伝説

新たな格闘技路線を打ち出しせっかく盛り上がりを見せて来た第2次UWFは1990年になるとフロントとの対立で興行を停止。所属していた選手達は高田延彦率いるUWFインターナショナル、藤原組、パンクラスなどへ分裂する事になった。

当時開局間近だったWOWOWUWFと契約する予定→頓挫→一人残された前田日明は所属選手1名状態の中、WOWOWのバックアップの元1991年にリングスを設立する事となる。

外国人選手を世界中から呼び寄せ、後にK1やプライドと言った格闘技がテレビ放映され始め格闘技ブームが出来上がった背景には、元はUWFそしてその後の前田日明氏による外国人選手の輩出によるものが全てと言っても過言では無い。

 

1991年にリングスを設立&初の興行を成功させた同年9月はペレストロイカの後期、当時のロシアは混乱期で冷戦時代から空手(武道)の使用は禁止されていたような時代。そんな時期、前田日明は選手をスカウトするために初めてモスクワを訪問した。当時のロシアを日本の終戦直後のようだったと表現する前田氏。スポーツ選手達はおろかロシア経済が破綻し国民全体が疲弊していたような時代。総合格闘技と言う言葉さえ未知の領域で当時のロシアの打撃系の選手達にリングスルールを説明して選手として参加させる事は容易な事では無かった。

そんな中、エカテンブルグと言う街にサンボ(ロシアの武道)の強い道場の噂を聞き訪問、後に選手として参加する事になるニコライ・ズーエフ選手やコーチのヒョードルフと出会う事となる。ロシアとの繋がりが出来てくると、当時ロシアで禁止だった空手をやっている連中(カラテクラブ)と日本の極真とのパイプ役を頼まれた前田氏。そこで出会ったバロージャ・クレメンチェフらをリングスに参加させる事にも成功する。旗揚げ直後の12月にはあのヴォルク・ハンが参加、翌年にはエカテンブルグでスカウトした選手達も続々と参戦、当時私はまだWOWOWを視聴する事が出来なかったので、福岡では誰もが知るどこぞの御曹司(修業で働いていた)宅に押しかけw視聴していた。

 

ロシアとの繋がりも出来きて興行的にも成功を収めていたと言える当時、前田氏がテレビを見ているとロシア関連の放送を見つけ視聴を開始、番組内ではロシアの混乱期に紛失したアタッシュケース型の核弾頭の事、ウラニウム濃縮に必要な物質がマフィアによって大量に国外に持ち出されていた事

 

その物質はエカテンブルグで製造されている事、国際指名手配されているマフィアはカラテクラブだと言う事を知る事になる。←しかも指名手配されているとされる写真に映る人物は全てクレメンチェフとの人脈で頻繁にあっている人達だった。

 

当時紛失したアタッシュケースや物質はリビアイラク北朝鮮の何かに売られた疑いが持たれていた。番組を見た翌月、クレメンチェフの誕生日パーティに呼ばれた前田氏。エカテンブルグ郊外に建てられた代々木第一体育館ほどの巨大な建物の1階はクラブ、2階は大理石の一枚貼りで相当な羽ぶりの良さが伺える。そこで再会したクレメンチェフに早速質問をする前田氏「お前の連れは国際指名手配されてるぞ?」。クレメンチェフ「あそこにいるぞ」。聞くとエカテンブルグにいるうちは大丈夫だと言う。

 

クレメンチェフの乗る車両は総防弾装備でフロントガラスさえも防弾、一部視認性確保の為にバックミラーサイズの窓はあるものの全面強固なシールドで覆われ、農場跡の広大な敷地に建てられた彼のお屋敷は24時間体制で警備されていた。趣味のハンティングにはミサイルなどを装備した軍用ヘリで北極圏に行くらしい。羽振りの良さがもう異次元の世界だ。

 

それからしばらく経って(2000年頃)クレメンチェフの訃報を聞いた前田氏。亡くなった当時の様子を聞くと自慢の防弾装備の車両のバックミラーサイズの小窓から徹甲弾によって狙撃され首から上が無くなったとの事。

 

前田氏の憶測によると紛失した例の物は

 

アメリカはリビアにあると思いカザフィ大佐は間違って処刑←発見できず

今度は9.11以降イラクにあると言って侵攻する←発見できず

 

残るは...

 

 

と言う動画を見た。