いつか書いた記事のように、せっかく計画を立てても、何らかの障壁が必ず立ちはだかる。
社会の中では自分以外との関わり合いが必ず発生するのでそれは必然だ。
人は皆、それぞれ価値観、考え方、立場が異なる。そんな人達と、なんでもかんでも考え方や行動を共にしようぜ!てのはやはり限界がある。
ある時はほんのちょっとの気遣いで互いに満足する時もあるんだけども、大抵はそうも行かない。
今やっている物事の規模がでかくなればなるほどそれは複雑になる。
だから一人で生活して居て、生活やら仕事やらの規模が随分と縮小された者からすると、割と自由が効く。計画に伴う判断や行動の自由がある。
目的がある程度明確ならば、自然とそこに向かうし、それに必要な情報が自然に飛び込んで来るはず...
なのに、たった一人の身内である兄は、先日誰にも看取られないまま寂しくこの世を去った。
兄は自衛隊を定年後、晴れて自由の身になった。定年すれば自由に暮らせる。「定年」が目標で、そこに向かって必死で働いてきた。
定年後、想像していた世界とは違った事に気付いた。お金に困る事は無いし、毎日誰にも指図されずに自由気ままに楽しく暮らす事を想像していたのだけども、数年経ったある日、あまりにも暇でする事の無い同じ様な毎日を過ごし、ある時期は軽い鬱症状が出ていた。
数時間のバイトでも良いから何かやれば?と言う話を何度かしたけども、人との関わり合いを極端に嫌っていた兄は、定年後に働く事だけは頑なに拒否していた。
健康には人一倍気を使っていた。自衛隊と言っても医療関係と言うのもあって、健康診断による細かな数値の結果を見ては、いつもここが悪いから改善が必要などと、普段無口なくせに、そう言う説明の時は饒舌になっていた。
私が離婚する前も何度か体調を崩していたので、一緒に生活する、もしくは私達家族の側で暮らす事をずっと提案していたが、その時兄には兄の計画があって、なかなか首を縦には降らなかった。
私はこんな状況になって、住む場所や仕事やお金に困って東京に行くと言う判断をした。
住む場所が無くなる。切羽詰まって寮のある東京へ向かった。
兄の世話すると言っても、その時兄は健康で60になったばかりだし、介護職員時代には、そのくらいの年齢でも現役バリバリで働いている人を大勢見ていたし、心配する理由もそれほど無かった。
ところが先月末、コタツに入り仰向けのまま突然亡くなった。
私も独りもんで兄と似たような環境であるので色々と考えた。
目標が定年だったので、こんな言い方アレなんだけども、必然か?とか、自分も同じ道を辿るな、とか、私がなんとか小倉に住み続けていたらこんな事にならなかった?とか。
悠々自適な生活を口に出して笑顔で楽しそうにやっているお年寄りがいる一方で、なんらかの事情で生活苦となる人もいるし、金があっても私の兄のような場合もある。
人と人との関わり合いが希薄になる一方で、新たなコミュニティも形成されつつある。
人口が確実に減って行き、高齢化社会に突入した今、定年後や死後について、今一度各個人があらためて考えて見る必要があるのは当然なのだが
自分が「死ぬ」までの事、死ぬ時の事は、出来る限り具体的に考えていた方が良いと思う。
兄と私の父は違っていて、何となく兄は、本当の父親を一番信頼していたと思う。
兄の遺留品を整理していて、兄が本当に信頼する家族の元に旅立ったと思う事で、ようやく兄の死を受け入れる事が出来た。
今夜は兄の亡くなったこの部屋で、兄弟水入らず、朝まで飲んで語らおうと思う。
ここ読んだ方、華麗にスルーして下さい。
すんません。🙇